劇団芝居屋的演技概論 その2



1 劇団芝居屋における俳優とは

果たして俳優とは表現者であろうか。いや、
演劇に於いて俳優は表現者たることを期待されているのであろうか。
俳優は画家・音楽家・小説家・彫刻家・脚本家・演出家・舞踊家等、
あらゆる表現芸術にわる者の一員として認められているであろうか。
この問い掛けに対して俳優自身から、言うまでもなく当然表現者であるとの答えが返ってくるだろう。
だが俳優を除く演劇界の人間にとって俳優は表現者として認められているのであろうか。

ここで私のいう表現者とは心中にあるものをその人固有の形のあるものに表す人のことを言う。
文字通りのことだ。
心の中にあるもの、無形のものを何かの形を借り、
もしくは形を発明したり発見したりすることによって表す人の事を言っている。
形を発明したり発見したりできる極めて稀な人を除き、大概の人は何かの形を借りて表している。
絵画・映像・文章等々といった表現形式である。

これを近代演劇というジャンルに当てはめて考えてみよう。
心の中にあるものを言葉で表す作家という存在があり、
作家の表現にした言葉を自分の心にあるものと反応させて具体的なイメージを創り上げてゆく演出があり、
そして作家の言葉と演出のイメージに自分の心を反応させ役者として演技という
具体的表現で表す俳優がいる。
つまり本来そこにはそれぞれ自分の内なる欲求をそれぞれの方法で表す表現者がいるだけである。
言い換えればそこに上下関係などはない筈である。
ところが現実はその様な原則的な関係では有り得てはいない。

演劇界で一般に良く言われることに、良い舞台はより良い台本と演出と役者によって造られる。
確かにその通りだと私も思う。そこの言葉には異論はない。だが本当にそうなのか。
狭いながらもこの世界に長年身をおいた人間として率直に聞きたいのだ、
俳優以外(主に作家であり演出家という事になろうか)の方々よ、
それを本音で言ってますかと。
その言葉通り同じ地平から語られる肩を並べる存在として俳優を見ていますかと。

俳優以外の人々の建前と本音という見地から見てみよう。
現在の演劇界の凡その建前では、
俳優は作家や演出など舞台を構築するあらゆるスタッフと同じく創り手の一人として居る、
となるが、本音では俳優は舞台を造る上での要素の一つに過ぎないのだ。
つまり俳優は舞台を構成する表現の集合体の一つではなく、材料に過ぎないのである。
そこには一つの構造が見えてくる。
本を書く人が一番えらくて、書けないが書かれてあることを具体化できる演出家が次にえらくて、
演出家のいわれるままに使われるのが役者だということだ。
作家の言いたい事を観客に伝達するのが演出家の役目であり、
その伝達を担うのが役者の務めであるという縦構造ある。
そこの構造に安住している限り俳優が表現者として立つ道はない。
俳優が表現者として立つ為には、自分自身に対する興味を深く持ちそこを探求していく以外に方法はない。

断って置くがわたしはその構造を根底から否定しているのではない。
俳優と名乗る人々の大半がその世界に身をおいていることも私は知っているし、
その様な構造でなければできない表現形態もあるだろうし、
それを否定するものでもない。ただ表現を認めないだけである。
簡単に言ってしまえば私にとって面白くないのだ。
私が長々と述べてきたこの段の趣旨は
冒頭の題名にも観られるとおり劇団芝居屋の演技概論ということである。
芝居屋の演劇は表現者によってなされなければならない。

つまり私の願いは表現者としての俳優と舞台創りをして行きたいのだ。
丁々発止と俳優諸君と渡り合いながらとモノ創りをしたいのだ。
その前に表現者である俳優を創り上げねばならない。なんと遠い道のりを私は見つけてしまったのだろうか。


2 劇団芝居屋においての台本と俳優

台本と俳優の関係は、俳優個人が自ら台本を書く以外、その台本は俳優にとって他人の言葉である。
俳優は他人の書いた台本と出会い登場人物の一人としての役者となる。
台本を受け取り内容を理解し、書かれてある状況設定の中での自分の立場
そこで果さなければならない役割を読み取り、
演出の要求を汲み取って、その役として生きる。
一見至極当然の様に見え、また世の中に徘徊しているこの役者論。

私はこの役者論の中に大きな疑問を感じる。ここで言われている事は、
俳優は役者として常に受身でいなさいということだ。
この論理のどこに、演劇表現を積極的に
自ら創造しようとする俳優(表現者)の役者としての関わりが見えてくるのだろうか。
内容を理解し、立場を知り、役割を読み取り、演出の要求を追行する。
そこに個としての俳優の思考や人生を反映しよう、尊重しようという行間は見えてこない。
ここで断って置きたいのは、この論理が間違っていると私は言っているのではない。
私が声を大にして言いたい事は、それでは足りないでしょうということなのだ。
その先の事を考えるべきではないですかと言っているのである。

私は役者にもっと考えることを要求する。
役割を果たす為の、大体とかこんな感じといった曖昧な場所から発する演技の排除を要求する。
もっと台本に書かれてある事を利用して自分の人生の創作することを要求する。
舞台に登場する以前の人生の創作を要求する。

台本を受け取り内容を理解し、演出の要求を汲み取って、
書かれてある状況設定の中での自分の立場、そこで果さなければならない役割を読み取り、
役者がその役を利用して独自の人生を持つ人間を創造し虚構の中で生きる
これこそが俳優が表現者としての役者を演じる事なのである。
劇団芝居屋が目指す
「覗かれる人生芝居」の究極はこの様な俳優が創って行く劇的表現であると私は信じている。


3 劇団芝居屋における台本の読み方

ここでは一般論としての俳優と台本との関係ではなく、
劇団芝居屋の要求する台本の読み方を論じていこうと思う。
そこを論じる前に、俳優にとって台本を読むとはどの様な事であろうか。
台本は俳優にとって新たに創り上げる虚構世界に入る為の道しるべであり、
その世界の住人としてある為の材料である。
ここであえてわたしは材料という言葉を使った。
後で述べるが台本=材料という意識が俳優が表現者である為の大きな要素となる。

初めて台本を手渡された俳優はどう台本を読むだろう。
まずどんな内容(物語)なのかに興味を持ってその台本からその世界を読み取ろうとするだろう。
そして状況を読み取り、関係を読み取り、個人を読み取る。
読み取り方は個人によって異なるがそこの様な事だろう。つまりする目線である。
この読み方は読者としては正しい読み方である。これを私は読者の読み方と名付け様と思う。
中には自分の出番しか読まない俳優もいるが、これは論外の例としよう。

読者の読み方とは、全体から細部へといった読み方である。
何が言いたくてこの作品を創ったかを解釈し理解しようとする読み方である。
世界は既にあると認識する読み方である。
この読み方では、登場する人物達は全体を組み立てる為の部分という位置付けとなる。
全体の構成を提示して行く案内係としての役割であり、出来事の説明者としての役割を持つ。
そこで要求される事はだいたいのキャラクターであり、こんな感じの人物である。
そこに俳優個人が表現者として参加する余地はない。

そこで劇団芝居屋は読者の読み方に加えて役者の読み方を提案している。
劇団芝居屋の提案する役者の読み方とは読者の読み方と相反する読み方である。
極私的な読み方である。俳優が役者として立たなければこの世界はないと考える読み方である。
僕(私)がいないと世界はないと認識する読み方である。役割ではなく生きる人間を創る為の読み方である。
この役者の読み方をするには、老婆心ながらくれぐれも断っておくが、
まずどんな内容(物語)なのかその世界を読み取り、そして状況を読み取り、関係を読み取り、
個人を読み取るといった読者の読み方をしてという事を忘れずにいて欲しい。

この読み方は自分の役柄が決った時から開始される。つまり俳優が役者となった時点である。
ここから台本イコール材料という世界に入る。
そして先に言った極私的読み方から始まる。
ここでまず始めに要求されるのはこの虚構(劇)に登場する以前の私を創る事である。
世界を読み取り、そして状況を読み取り、関係を読み取り、
個人を読み取ってどの様な人間として登場したいのかという欲求を見つける事である。
読者の読み方で汲み取った役割を利用して個人を明確化することである。
その為には明確な自分史を描く事は欠かせない。そしてそこから他人との関わりを探すのだ。
つまり個人から世界を見るのだ。
自分の知らない事や分からない事や好ましい事や嫌いな事といった具体的な事をはっきり創る事だ。
そして書かれてある自分の行動、自分を取り巻く環境の中で自分の位置を探し、
自分が何者であるかを明確に造形し、固有名詞を持ち自分の心を明確にする。
自分の心が明確になれば発する言葉は決ってくるものだこうとしか言えない自分の言葉が。
決して目の前にある台詞をどう言おうかなどという低次元な場所から発してはならない。




                                     2006年1月31日 劇団芝居屋代表 増田再起

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